すてらっちょの日常

ただつらつらと、思ったことや感じたことを。

僕たちの嘘と真実。

 

度々Twitterで言うのだけれど、僕はアイドルファンが”裏側”を勝手に推測して物を言うことを好ましく思わない。

 


「誰々は頑張っているのにどうして選抜に入れないのか」だとか、「誰々は努力しているのにどうして不遇に扱われるのだろうか」だとか。

 


アイドルファンのある種常套句とも言える様な言葉がとても嫌いだ。大嫌いだ。

 


僕はよく、「我々ファンにとってはあくまで見せられたものが全てだ」と言っている。

 


表舞台に立つまでの彼女らの努力している様子など、極めて一部分しか知り得ないはずだ。

 


それなのに、誰々は頑張っている、なんて、どうして勝手に決めつけることができるのだろうか。

 


逆も然り。「報われないのは努力が足りないからだ」なんて、どうして言えるのだろうか。

 


これってとても失礼な発言だと思う。

 


ドキュメンタリー映画は、この”裏側”を少しだけ見せてあげるよっていうものだと思う。

 


とはいえ、一部始終全てを取り上げるわけではないのだから、映画を見たからといって全てを知った(分かった)気になってはいけないと思う。

 


これも、アイドルファンに見られる典型的な傾向だと思う。

 


あくまで切り取られた”一部”であり、それを集めた”作品”に過ぎない。

 


そんなことを考えながら、僕は映画館に足を運んだ。

 


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これから話す内容は、映画のネタバレを含んでいることを予めご了承いただきたい。

 


さらに、文中で引用する彼女たちの言葉の正確性は保証できない。ニュアンス重視で記載する。

 


また、これはあくまで、映画を通じて、たかが1人のファンが感じたことに過ぎないことを、ご理解いただけたらと思う。

 


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全体的な感想としては、いい”作品”になっているな、というものだった。

 


時間の流れを時折逆行させながら、その時の平手友梨奈の様子と、その時のメンバー想いを伝える、という構成。

 


映像の繋ぎ方や切り替え方に、今後の展開を予感させるような演出が施されていた。

 


主にライブを軸にストーリーが進んでいったのは、欅坂といえばライブ、というのがあったからなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

花道から落下する平手友梨奈の映像を冒頭に持ってくることで観客の心は一気に引き込まれたと思う。

 


その後、デビュー当時の彼女の姿が映し出される。

 


スピーチを何度も復唱し、不安と緊張のあまりメンバーに寄り掛かる、年相応の幼気な様子。

 


そしてライブの後には、彼女は「本当に納得のいくライブができたときには、涙が出るんだと思う」という強い言葉を発する。まるでこれが全ての始まりだと言わんばかりに。

 

 

 

 

 

 

月日を重ね、欅坂としてのパフォーマンスに磨きがかかるにつれて、平手友梨奈の才能も開花する。

 


曲中の主人公に憑依する圧倒的な表現力には誰しもが心を掴まれたと思う。

 


いつしか欅坂=平手友梨奈という枠組みが作られていく。

 


しかしそれは、メンバー自身も否定はできなかったと思う。

 


才能を尊敬する一方で、それに縋ってしまう、頼らざるを得なくなってしまう自分達を、どこか受け入れざるを得ないような空気があったのだと思う。

 


守屋茜が「自分達がバックダンサーだと思った時期もあった」と語っていたが、まさにそれは我々が客観的に見た欅坂の印象でもあったことは否定できないと思う。

 

 

 

皆が平手友梨奈の力を必要とし、それにしがみついていたからこそ、納得いくパフォーマンスができないとライブを休む彼女を、世界観に入り込めないとMV撮影を休む彼女を、強く叱ることができなかったのだと思う。

 


一般的に見れば極めて自己中心的で迷惑甚だしいことだとしても、彼女達の中で、「平手友梨奈がそう言うなら仕方ない」と思っていたところがあるのかもしれない。それがいけないことだと分かっていても。

 

 

 

菅井友香は、「MV撮影を休む彼女に対して、もっとちゃんとしろよって思いませんでしたか?」という問いに、言葉を詰まらせた挙句明確な答えは出さなかった。

 


恐らく、そう思う部分もあったものの、彼女があってこその欅坂という想いがあったからそうは言えなかったのだと思う。

 


明確に、「そう思うこともあった」などと言わなかったのはきっと、彼女なりの優しさなのだと思う。

 

 

 

 

 

 

こうしてみると、平手友梨奈は、自分の都合で仲間や周囲の大人達を振り回す独裁者で孤高の存在のように思えてくるし、世間一般からの捉えられ方もそうだと思う。

 


しかし映画を観るにつれて、「実はそうでもないのかな」という印象を僕は抱いた。

 

 

 

音楽番組やライブを急に欠席することに、「プロとしてどうなのか?」とよく言われていたし、実際自分もそう思っていた。

 


けれど当然、”プロ意識”は人それぞれ形があって、「万全のコンディションではなくともそれを隠して舞台に立つ」というのも、「中途半端な物を見せるぐらいならやらない方がいい」というのも、どちらもプロ意識としてありなのではないかと思った。

 


平手友梨奈は、恐らく後者。

 


完璧主義な彼女にとって、できないものはできないのだ。

 


その一方で、完璧を求めるあまり作品に過度に浸かる。

 


不協和音のMV撮影中、転んだメンバーに皆が駆け寄る中自分はそうしなかったのも、きっと自分の世界観にそぐわないからだと思う。

 


人に抱えてもらわないと移動できないほど憔悴している状態でも、一度舞台に立てば一瞬で自分の世界に引き摺り込む。

 


舞台裏の様子から通して観た「角を曲がる」は、思わず涙を流した。

(一時の音楽番組での様子は、この際触れないでおく。)

 

 

 

映画の中、ライブリハの合間などのふとした瞬間に、1人でいる彼女の様子が度々映し出された。

 


まるで輪から弾き出されて孤立しているような、あるいは周囲を見放しているような、そんな姿。

 

 

 

しかし映画を観ていると、彼女はとてもメンバー想いであることに気づくのだ。

 


内村さんとコラボした不協和音の後、彼女は「欅坂から離れたい」と語る。

 


自分が中心にいることで周りが霞んでしまうことへの罪悪感もあったのだと思う。「みんなは欅坂にいて楽しいですか?」という問いに胸が締め付けられた。

 


この時必死にメンバーが引き留めるのをみて、「あぁ、やっぱり依存しているんだな…」と再確認できたところもあったシーンだ。

 

 

 

さらに昨年の紅白。

 


ここで彼女は、自分の活動が本当に最後であると仲間に伝え、1人1人に言葉をかけ、手を握り、抱きしめた。

 


ここに彼女の、不器用なりの優しさを感じた。

 

 

 

僕は時折、「変わったのは周りの見る目であって、平手友梨奈自身はずっと何も変わらない」と主張してきた。

 


大方間違っていなかったのかもな、と嬉しく思えた。

 

 

 

不協和音披露後、横たわる平手友梨奈は、一筋の涙を流していたのだった。

 

 

 

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さて、僕が”作品だった”と感じた理由にはもう1つある。

 


それはインタビュー映像だ。

 

 

 

 

 

 

椅子に座って話す、まさしくインタビューというメンバーもいれば、机に座ったり、本棚に凭れたり、話をするには不自然な様子で物語るメンバーもいた。

 


ここにどこか違和感を覚えた。

 


彼女達の言葉が嘘だとは思わないが、どこか作られたものだと強く印象づけられた。上手く言語化できないけれど。

 

 

 

 

 

 

心に残ったのは、小林由依が「私が思ってることとみんなが思ってることが違うと感じることが多い」と語ったところ。

 


もしかしたら彼女は、人一倍平手友梨奈に縋りたくないという想いがあったのかもしれない。

 


いなくてもできる。自分だってできる。負けられない、負けたくない。

 


闘争心というか、反抗心というか、そういうのが強いのかなと感じた。

 


だからこそ彼女がセンターを張った楽曲は、他のメンバーのセンター曲の比にならないくらい魅力的に見えたのだろうと思う。

 


紅白のパフォーマンスは圧巻であったし、先日の配信ライブでも本当に輝いていた。

 


これからは自分が引っ張っていくんだという強い意志が伝わった。

 

 

 

…尤も、ご存知の通り僕は小林由依推しであるから、これが推し補正による曲解だったら大変申し訳ないのだが。

 

 

 

 

 

 

インタビューの中で1番生々しかったのは、製作者(恐らく監督?)と、振付師TAKAHIRO先生とのやり取りだった。

 


無機質なスタジオの片隅で向かい合い、照明機材やカメラを含めた俯瞰的な画角で唯一撮られていた。

 

 

 

そこで製作者側から、「大人の責任って何なんですかね」という問いかけがなされるのだが、これは長年彼女達を密着し、撮り続けてきた中で自然と溢れたものなのではないかと感じた。

 


これに対しTAKAHIRO先生は、「見続けること」だと答えた。点ではなく線で、と。とても深みのある言葉だと思った。

 

 

 

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欅坂46は、生まれ変わって櫻坂46となる。

 


イメージカラーは白。

 


とても思い切ったことだと思うけれど、僕は彼女達によく合っているのでは、と思った。

 


これからどのような色を見せてくれるのか楽しみだ。

 


変わるべきところは変わって、変わらずにあるべきものはそのまま大切にして。

 


そんなグループになれたらと願う。

 

 

 

何事においてもそうだが、いくら明らかに此方から見て悪いことだ、間違っているものだ、と思っていても、所詮プロには敵わないだろうというのが僕の持論だ。

 


だから僕はあまり運営に対して、不平不満は伝えることこそあれど、もっとこうしろああしろと、強く一方的な言い方はしたくない。というか、しない。

 


胸を張って叫べる皆様は凄いと思う。直接伝えればいいのにね。伝える術をご存知ないのですかね。あー、公式Twitterにリプすることでは断じてないですよ。

 

 

 

伝えるべきだと感じた意見は伝えて、あとはプロの方々のご判断に任せるというのが僕のスタンス。

 


それこそ彼らの”プロ意識”を信じたい。

 


まぁ、なにぬるいこと言ってんだと言われるかもしれないけれど。笑

 

 

 

 

 

 

映画を通して、これからも彼女達を心の底から応援したいという気持ちに、何ら変わりはなかった。

 


それだけでも、観た甲斐があったと思う。

 

 

 

 

 

 

そういえば、土田さんが自身のラジオで、「2時間じゃ足らない。全員分の話を聞きたい。」と話していた。それはとても同意する。

 

 

 

拙い文章だったと思うけれど、ここまで読んでいただいた貴方に、心より感謝します。

 


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“人はみな月である。誰にも見せない陰を持っている。” — Mark Twain

 

 

 

Stella.

優しさとは。

 

こんばんは、私です。

 

今日はちょっと重い話をしようかなーと。

 

長くなるので、そんなの読んでられるか!と言う方はまあプラウザを閉じていただいて。

 

そもそもこれを見てる人がどれくらいかもわかりませんが。

 

 

 

 

 

 

 

さて、実はですね、

 

先日は僕の祖父の一周忌でした。

 

初めてしっかりと見つめた人間の死というもの。

 

母方の祖父母とは一緒に住んでいたので、余計に心に来るものがありました。

 

1年経った今でも。

 

 

 

原因は肺癌でした。

 

3年ぐらいですかね、闘病生活を始めて。

 

 

実は僕は一度現役で大学に入っているのですが(過去記事参照)、いつどうなるかわからない祖父に、大学へ入る姿を見せるため、というのも理由の1つでした。母親に頼まれて。

 

 

昨年の今頃は浪人生していました。

 

たまたまその日は体調が優れず家にいたのですが、

 

仕事を休んでいた母親が病院に行くと言って数時間後、様態が急変したからすぐに来いと連絡を受け、部屋着のまま家を飛び出したのです。

 

最寄り駅に着いた時、目の前で電車を見逃した悔しさは一生忘れられません。

 

普通列車しか止まらないので、次の電車が来るまで待ち遠しく、病院付近の駅に着いてこれでもかというぐらい走りました。

 

祖父が息を引き取ったと母親から伝えられたのは、病院の敷地に着いた途端でした。

 

あの時電車に乗れていたら。

もう少し足が早かったら。

なんて思ってしまいますよね。

 

結局、死に目に立ち会ったのは母親だけ。

家族が揃ったのは、息を引き取ってから2,3時間がでした。

 

今では死亡確認は家族揃ってから行う、ということも出来るそうで、全員で医師が確認するのを見届けました。

 

 

 

 

 

 

…と、言うのがまぁ1年前の出来事なのですが。

 

 

 

 

祖父はとにかく優しい人でした。

 

近所の方々だったり、手続きのために訪れた銀行だったり、あらゆるところへ亡くなったことを伝えに行くと、

 

誰もが皆口を揃えて「本当に優しい方だったのに」と仰っていました。

 

 

こんな人、なかなかいないと思います。本当に。

 

 

 

いつも自分は後。心配をかけるのも避ける。

 

だから損をすることも多々あったし、初めて癌がわかった時にはステージlll。

 

 

 

家事はほとんど祖父がやってくれていたので、今になってそれがどれほど助かっているのかを痛感します。

 

 

 

 

大学辞めるのを初めて相談したのも祖父でした。

 

「やりたいことやればいいよ」と、背中を押してくれたのです。

 

本当は自分は何がしたいのかと、今一度気づかせてくれました。

 

 

 

 

勉強中には度々差し入れをくれたりなんかもして。

 

 

入院するようになってからメールを覚えて、初めて届いたひらがなだけの文面は嬉しくて思わず泣いてしまうほどでした。

 

 

 

本当はもっと恩返しがしたかった。それに尽きます。

 

車の免許も取っていたから、もっと色んなところへ連れて行ってあげたかったし、

 

バイトして貯めたお金で食事に誘うこともしたかった。

 

 

こうして今でも浪人していることは、とても申し訳なく思います。

 

 

 

後悔先に立たず、とはよく言ったものですね。

 

 

 

 

 

 

 

ぐちゃぐちゃな話ですね。

 

どうも上手くまとめて話すことが苦手なようで。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、

 

 

優しさってなんでしょう。

 

 

優しさってたぶん、その時その場所では気づかないものなんじゃないかな、と思ったりします。

 

 

その時々でも感謝の意を抱きますが、どこかでそれを軽んじていることはないでしょうか。

 

 

 

こうして失ってから初めて、与えてくれたものの大きさに気付くものではないでしょうか。

 

 

人間とは、実に愚かですね。

 

 

以前とある方が、「感謝」の対義語は「当たり前」だと言っていました。

 

有るのが難いと書いて有難し。

 

滅多にない、珍しい、なんて意味を古典で学んだと思います。

 

だからこそ、感謝しなければならないのだ。

 

日本語の美しさを感じますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

人に優しくするというのも難しいです。

 

優しくしよう、と思って行動した時点で、それは優しさではないような気がします。

 

気持ちよりも先に行動が来るものだと思います。無意識的な、とでも言いましょうか…。

 

 

 

だから、それを、万人が口を揃えて賞賛するほどに行ってきた祖父はとても偉大なんだと、今になって痛感します。

 

 

 

尊敬する人を問われれば、それは間違いなく祖父です。

 

私は、祖父のような人間でありたい。

 

そう思って行動することも、真の優しさのは言えないのでしょうけどね。

 

 

 

 

 

 

と、まぁ結局のところ自分の胸に沈んでいたものを吐き出したかったがためにこのような文を書きました。

 

 

ここまで読んでくださった方々いるのならば、心より感謝します。

 

 

こっそり、教えてくれたら嬉しいです。笑

 

 

 

お付き合い頂きありがとうございます。。

 

 

 

 

次はもうちょっと楽しいお話ししますね笑

 

 

Stella. 

やっとかめだなも。

 

こんばんは、私です。Stellaです。

 

タイトルは、ふるーいふるーい名古屋弁

久しぶりだね、という意味です。

 

お久しぶりですどうも。

 

サボっていたわけでも忘れていたわけでもありません。書くことがなかっただけです。

 

いや、ほんとよ?ほんとに。

 

 

 

最近の世の中は色々ありますね。

 

僕の身の回りも色々あります。

 

センター試験の出願があったりね、ええ。

わたくし3度目の挑戦であります。

あほやなーって思うでしょ?僕も思います。

 

受験なんて2度とやりたくねーつって3回目。

 

これを読んだ皆様の中にも受験生はいらっしゃるのだろうか。頑張りましょうね。

 

以前の記事にも書きましたが、妥協せずにやりたいことをやれる所を目指しましょう。

なあなあじゃだめです。

 

明確なゴールもないのに、なんとなーく大学行って、なんとなーく遊んで、ただただ単位に追われるなんて、時間と金と労力の無駄だと思いません?

 

浪人生のくせにうるさいって?そりゃあ失礼。

 

でもまぁ、やりたいことやるために、目標を果たすために、私はこの立場にいるのです。

だからといって胸を張るつもりはありませんが、ね。

迷惑たくさんかけてるし。

 

親に感謝だなーほんとになー。

 

誰か僕のお尻ぺんぺんして発破かけてください、よろしく。

 

 

 

 

 

さてさて、話は変わりまして。

 

西野七瀬さんと若月佑美さんが卒業なさいます。

 

僕の物書き人生にとってとてもとても重要な御二方であります。ほんとにとても。

 

 

僕は心が無いので()、あんまり寂しいという感情はなく、ただただ前向きなのですが、それも人それぞれ。悲しむことだって悪いことではありません。

 

ただまぁ、何かにつけて橋本奈々未さんのことを引っ張り出して回顧して打ち拉がれたり、ここぞとばかりに過去の動画や画像を引っ張り出して推測論並べるのは、毎回毎回流石にあほなんちゃうかと思いますけどもね。うるせぇ。←

 

 

時代は変わりますね。世代も変わりますね。

 

やっぱり変化を楽しむっていうのが一番いいと思うんですよね。

いつまでもあの時が〜とか、この時が〜とか、って過去に固執するよりも。

 

絶えず移りゆくその瞬間を楽しみたいですよね。

諸行無常の響きあり、です。

 

来年は乃木坂にとってきっと重要な1年になるでしょうから、楽しんで見守っていきたいですね。

 

 

 

 

 

それはそうと最近、柿崎芽実ちゃんと東村芽依ちゃんにハマってます。かわいい。

 

それからNGTの中村歩加ちゃん。あゆたろう。かわいい。

 

困ったなぁ。

 

 

 

また書きますね。今日はこの辺で。

 

ばーい。

 

f:id:nogikeya_star46:20181002235852j:image

 

 

愛について考えてみた。

 

さて、昨日妄想三原色の企画として作品を投稿しました。

 

それについてちょこっと書いてみようと思います。

 

もしかしたらネタバレを含んでしまうかもしれないので、

 

まだ読んでない方は先に読んでくださいね。

 

https://twitter.com/i/moments/994139063765557248

こちらから。

 

 

 

 

 

さて、テーマは“愛してる”です。

 

“好き”ではなく“愛してる”なのです。

 

言葉の重みが違いますよね。

 

 

英語ではI love you. ですが、現地の方々もこの言葉はそう簡単には口にしないそうです。

 

長年付き合っている恋人にさえ、言うのを躊躇ってしまう人もいるのだそう。

 

 

それぐらい重い言葉なのだと思います。

 

 

なかなか言える言葉じゃない。

 

だからまず、高校生カップルという設定はあり得ないと考えました。

 

愛してるなど易々言えるような身分ではないと考えたからです。

 

 

 

そう考えると、大人の恋愛だろうか。

 

 

と、思ったのですが、やはりテーマは愛。

 

 

きっとほかの参加者も恋愛系なんだろうなと考えて、何か他の形はないかと。

 

 

すぐに浮かびました。僕が選んだのは「家族(親子)愛」です。

 

 

これは恋人間に存在するものよりもうんと深いものだと思いました。

 

無償の愛、なんて言葉もありますしね。

 

 

 

家族というのは恋人よりも大切なものです。

 

 

どうでもいいですけど、僕はいくら魅力的な女性でも家族を大切にしない人は嫌いです。

 

仮に家族よりも僕を優先するなんてことがあったら、失望してしまいます。

 

 

 

それぐらい家族は大切にするべきだと思いました。

 

 

 

 

 

そして親への愛や感謝を伝える場として、結婚式というのを選びました。

 

僕はまだ19なので経験はしていませんが、きっと改まって言えるのはそこなんじゃないかなと。

 

 

そして手紙ですね。

 

 

昨今ではSNSや電子メールが発達し、気軽になにかを伝えることができるようになりましたね。

 

欅のトークでもメールが送れます。

 

 

 

でも、やっぱり自分の想いを伝えるのは、自分の口であり手書きの手紙でなくてはならないと僕は思います。

 

これもやっぱり、重みの違いです。

 

 

そういえば僕の友人も、「心配達」なんて作品を書いていましたね。ひどく共感しました。その通りやね!って笑

 

 

 

 

だから僕は度々Twitterで、タグをつけて自己満のメッセージに入り浸るぐらいなら黙ってファンレターを書けと言ってます笑

 

 

 

 

 

大事だと思いますよ、手紙。

 

 

 

 

 

 

 

作品についても触れましょうか。

 

 

あれは正直書いてて自分も心が痛みました。

 

将来自分の子供にあんなことされたらどうしようと←

 

 

 

僕なりに、温厚で不器用な父親をイメージして書きました。

 

 

 

お弁当を捨てたというくだりがありましたが、

 

あれは僕の実体験を元にしてます。

 

 

 

僕も母親も一時期入院していた時がありました。

 

普段母親が忙しかったり寝坊したりでお弁当を作らなかった時は、購買やコンビニで買うことが多かったのです。

 

きっこ今回もそうなんだろうなーと思っていたら、父親が代わりに作ってくれたのです。驚きました。

 

 

 

お昼休みに蓋を開けてみると、やはり母親のものより随分と劣ったものでした。

 

卵焼きはぐちゃぐちゃだし、容器に隙間だらけ。

 

 

 

でも僕は、作品の彼女みたいに捨ててないですよ?笑

 

 

 

不器用なりに作ってくれたのが嬉しくて、友達に隠れて泣きながら食べたのを覚えてます笑

 

 

 

 

でもきっと、そういうのって女の子の方が気にしてしまうのかな、という勝手な先入観でああいった形にしてみました。作品ですしね笑

 

 

 

 

 

 

親への気持ちってなかなか伝えられるものではありませんよね。

 

ああいう場で、ああいう形でしか伝えられないものです。国民性ですかね。

 

 

そういう特別な時にしか言えないからこそ、日本語には奥深さがあるんじゃないかなーと思います。

 

 

 

 

 

 

たまにはこういう作品もありでしょ?って気持ちで書きました。

 

これを機に、みなさんも改めて家族について考えてみては?

 

 

 

 

 

 

 

前回よりも長くなってしまいましたね。

 

繋がりのない文章ですね。

 

 

それもまた一興ですよ((言い訳

 

 

 

 

「人間には『愛』がありさえすれば、幸福なんてなくたって生きていけるものだ。」

                                         by ドストエフスキー

 

 

Stella. 

ばんわんこ。

えー、Stellaです。

 

物は試しやろ!と思って初めてみます。

 

イマイチ使い方よくわかってないんであれですけど。

 

 ここではTwitterに書ききれないようなことを、つらつらだらだらゆるゆる書こうかなと思ってます。

 

坂道のこととか、妄ツイのこととか、小説のこととか。

 

リアルな話とか。

 

あとは、以前本を読もうと宣言したので、その感想だったりとか。

 

とにかくまぁ色々気ままに書いていきます。

 

こんなこと書いて!ってリクエストがあれば言ってください。

 

一応、コメントは誰でもできるようになってます…たぶん。

 

なにはともあれ試験運転。

 

よろしくおねがいしますね。